二代目河内又兵衛は明治維新の大変革に耐え、醤油販売を地場中心に変えて拡充に努力し、堺に河盛三家ありとまで言われた。
 三代目河盛又三郎は明治30〜40年代にかけて、醤油業界では先頭を切って機械化に踏み切り、醤油業を手作りのものから醸造工業の中核をなすものへと発展させた。大正15年にはその醤油業を個人商店から株式会社へと変え、その経営を近代化し、自らは初代社長へと就任した。醤油の販路を国内にとどまらず、満州、台湾、米国にまで広げた。第二次大戦末期の堺大空襲で、河又醤油はその本店も工場も灰燼に帰し、また、海外の販路も全く失った。二代目社長河盛安之介は堺市長を兼務しながら会社の復興に努めた。戦後、醤油工場は堺の旧市内の新在家町から約2km南方の堺市石津北町に移転した。
昭和45年には、貝塚の醤油業・イヅミイチと企業合同し、新会社大醤を設立し、河又醤油工場をその生産拠点とし、醤油製造・販売の集約化をはかった。大醤初代社長には河盛安之介が就任した。